どんなに正しいと思っていても、偏った考え方は誰も幸せにしない。

  • 2017年4月12日
  • 2018年2月27日
  • 日常
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『自分の為』ではなく、『大切な人の為』と考えると答えが真逆になることがある。

それは決して自分をないがしろにしているわけでも、
他人優先に生活しているからでもなく、
『大切な人』のことを
本当に大切思っているからこそできる
他者目線から導き出される答えだからだと思う。

そして、他者目線でありながら
そこに隠れている自分の本心に気付くこともある。

 

 

以前、こんなことがあった。

あるご夫婦が「私たちはお墓を建てません」と結論を出した。

それはいろんなことを考えてのことで、ずいぶん迷われて出した結論だった。

  • 子供たちは結婚したけど男の子がいない。
  • ○○家は息子の代で終わる。
  • それに遠方にいる。
  • 富山でお墓を建てても誰も守ってくれることはないだろう。
  • それに子や孫の負担になりたくない。
  • お寺の納骨堂に預けるか散骨にしよう。

「墓地は持っているけど、お墓はどうしよう・・・」ということで私もお墓の専門家として相談に乗っていた。

お客様の質問に答える形で、お墓の歴史やお墓を建てる意義をお伝えした。

その上でやっぱりお墓を建てないことに決められた。

私はその考えを大切にすべきだと思い、
お客様の家を出た。
それから数年後、その方からお電話がきた。

「お墓を建てたいから、今から来てくれないか」

何かあったのかなと思いつつお客様のお宅へ向かう。

「息子が病気で亡くなった。
自分たちのお墓を建てるつもりはなかったけど、息子の為なら建ててやりたい。
お願いできないだろうか。」
『自分の為』なら建てるつもりはなくても、
『子供の為』なら建てたいと思う。

『自分のお骨』は海にまいて欲しいけど、
『子供のお骨』を海にまくのはためらわれる。

 

「お墓という負担を子供たちに残したくない」という考え方はわかる。

先に逝くあなたの気持ちを尊重したいとも思う。

でも遺された人がどう思うかを一度は想像してみるのも大切ではないか。
視点を変えたり、違う立場を想像してみると、思いもよらない答えに気付く。

どんなに相手のことを思って出した結論でも、
偏った考えは誰も幸せにしないのかもしれない。